CITY OF LOVE ムーンライダーズの活動が休止状態だった86〜7年は日本では遅れてきたニューウエイヴァー達(ネクタイすこし下げてジャケット着てる奴)は横行し、打ち込みもナマっぽくシュミレイションしてブリティッシュアメリカンな音を作る人たちが実に多かった。白井良明ははっきり言って疲れていたのであった。 兎に角、当時の「ブリティッシュアメリカで売れたいブラッキー系サウンド」に辟易していたのだ。なにがあってもとりあえず、一掃したい気持ちで一杯であった。 ボくは事前に一度ニューヨークへ自費で行き、コーデネイターに会い、ミュージシャンを探した。東京とニューヨークで日米合作の始まり始まり・・・ このアルバムで特筆すべきはなんと言っても、「ウイズパーインザナイト」に於けるハウスミュージックの歌謡化と「火傷しそう君の冷たさに」のラテンヒップホップの歌謡化でありましょう。なんか講議みたいでおかしい(笑)。曲自体が白井に合う合わないは別にして、87年当時ハウスというものを知っている人々はかなり少なかったのである。今野雄二さんがミュージックマガジンでラテンヒップホップについて触れているのを読んでいたくヒントになったのである。僕は別にブラックミュージックに詳しいわけでもなんでもなく、ただ今野さんの文の奥にある、ウヌウヌとした新しい音楽のウゴウゴパワーとこれからの主流感みたいなのを感じたのである。実際にレコードを聞いてみると都会生活者にとってのお祭りというか、民族音楽みたいだと思った。 案の定2年ほど立つと小室哲哉がハウスミュージック歌謡でヒットを飛ばし始める。売れたもん勝ちといえばそれまでだが、結構恥ずかしいハウスも結構あった。そんなことはどうでもいい。僕はすぐ横道にずれる。 スタジオでフェーダーをカットインアウトとくり返す僕を見て、何やってんだ?白井さん!とよく言われた。アメリカでの成果である。 ムーンライダーズが暫く休止状態にはいっていた頃、僕は単身ニューヨ−クに乗り込むことになる。自分でプロデューサーを探し、そのプロデューサーにアレンジャーを探してもらい、ジェフボーヴァ、ジョーマーディン、デヴィッドコール達とコンビを組む。最初ニューヨークのスタジオに入った時はまわりは背の高い人たちばかりで結構ビビったもんだ。デヴィッドコールはC&Cミュージックファクトリーというプロデュースチームの片割れで才能バシバシであった。彼の影響はかなりあると思う、若く才気に溢れ、礼儀正しい青年だった。だが今はもうこの世の人ではない。かれが音楽を作っているところはすごくカッコえかった。リズム、ダイナミズム、希望に満ちていた。 ミュージシャンとしては、ニックモロック(こいつははずした)、カーティスキングジュニアらと出会う。カーティスとはかなりいい感じでその後の東京パワステ2デイズにも参加してもらうことになる。 発売後の評判はなんかパっとしなかった。なにをやってるのか解らないというのが正直なところだったみたい。僕もはじめてのソロアルバミングだけあってさすがにトッ散らかっていた部分が多々あったのだ。僕を理解してくれたのは結果的にミュージックマガジンの大竹君だけだった。当時、ハウスミュージックのポップ化にとりくんだ人は誰一人いなかったし、ハウスミュージックを把握している人間はとにかく僕のまわりには皆無であった。現に僕もよく知らなかったというか世間は白井良明はブラコンになったと言った人達がいた。 そういえば僕がプロデュース業に邁進しているとき、「白井はプロデュースをして荒稼ぎをしている」と言った人がいたらしい。二人の人間からそう言われた。僕は誰がそう言ったか大体把握しているが、そんなことはどうでもいい。ひたすらコツコツやるだけだと街角にある靴屋さんは毎朝早くから遅くまで頑張るのあった。おもったことをやるだけだった。またまた横道。日本の愛すべきミュージシャンも素晴らしい人たちであった。僕は好きな人としかやらないのだ、当たり前か!! ペットはもとミュートビートの児玉さん。バカボンと小原礼はバババッチリリリ!!そしてなぜかベイブ(懐かしい!!)がなぜかコーラスではいっている。彼女達も一生懸命やってくださいました。エキゾティックスから柴山和彦ブラザー、西平彰さん、松尾清憲さん。 PMPの上阪さんが協力してくれた。周囲の反対を予算を絞り出してくれた。いまでも感謝しています。 ポニーキャニからは国吉さん、そしてその下の野巻というのが現場を担当してくれることになった。青野うん坊、野巻(キャニオン)、上阪PMPがリレーでニューヨークに来て面倒みてくれた。45日ほど滞在。 ジャケット撮りがなかなかファンキーであった。ハーレムで黒人をスカウトしようとか言ってハーレムに向かったはいいが、恐くて全然スカウトできず、結局グリニッチヴィレッジの赴き、階段に座ってギター弾いて、誰かと踊る、というかなりイカシタアイデアだったが、ここも結構恐くてニヤニヤするのがやっとであった。それがあのジャケットだす。 余談: ジャケットで着ているトレーナーは後に南野陽子も女性週刊誌で着ていた。日清パワーステーション2日間をする1987.9.22/23だった。 (2001.02.04) |
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